2010年1月13日水曜日

ケヴィン・マイケル・ドーク『日本浪曼派とナショナリズム』(柏書房、1999.04)

■1935年1月に創刊された雑誌『日本浪曼派』が提唱した「ロマンティッシュ・イロニー」なる概念は、未曾有の不況から政局の混乱、そして戦争へと一気に雪崩れ込んでゆく不安な世相を生きざるを得なかった青年達が抱いた「デスパレートな気持ち」(橋川文三)に対して強烈に作用した。『日本浪曼派』の前身となった雑誌『コギト』には、例えば次のような文言が見られる。

<日本浪曼派は、今日僕らの「時代の青春」の歌である。僕ら専ら青春の歌の高き調べ以外を拒み、昨日の習俗を案ぜず、明日の眞諦をめざして滞らぬ。わが時代の青春!この浪曼的なものの今日の充満を心情に於て捉へ得るものの友情である。芸術人の天賦を眞に意識し、現状反抗を強ひられし者の集ひである。日本浪曼派はここに自體がひとつのイロニーである。>(「日本浪曼派広告」『コギト』1934.11)

■本書は、『日本浪曼派』同人に名を連ねた保田與重郎、神保光太郎、萩原朔太郎(1936年12月より参加)、田中克己(同人にはならず寄稿のみ)、伊東静雄、亀井勝一郎、林房雄(1936年8月より参加)ら各人のテクストを分析することで、「日本浪曼派」という戦前日本における特異なロマン主義運動が、如何にしてナショナリズムを形成したかを分析したものである。ここでは差し当たり、「プロローグ・ナショナリズム、ロマン主義および近代の問題」で展開される議論について整理しておこう。

■「プロローグ」における著者の主張によれば、『日本浪曼派』およびその前身の『コギト』の眼目は、①あくまでも普遍的合理性に根ざした西欧的近代の日本における成立を前提としたうえで、その成立により「失われてしまったもの」を「想像的に回復する」こと。②そしてそのような所作により、「公定ナショナリズム」(ベネディクト・アンダーソン)とは別様のステータスに「ナショナリズム」を確保すること。この二点であった。その際「失われてしまったもの」として呼び出されるのが、『万葉集』や『源氏物語』といった日本の古典である。以上の観点から著者は、柄谷行人を参照しつつ次のように述べる。

<日本浪曼派は、近代日本における「民族」や「文化」があくまで人工的なものであるということ、したがって、土着的・伝統的でかつ純粋であると思われるようなものを、近代世界というコンテクストの中で意識的に作り上げていく必要があることをー前述した明治期のナショナリスト以上にー明確に示したのであった。このように日本的伝統の人工的な性格を強調した点で、日本浪曼派は、北村透谷や高山樗牛といった明治期のロマン主義者とは一線を画していた。柄谷行人が指摘するように、「注目すべきことは、日本浪曼派が、明治期のロマン派のように、『万葉集』をより自然で本源的だと考えたのでないということだ。それは逆に、人工的なもの、ある種のデカダンスを評価する」。>[21]

■自身の内奥に感知される「土着性」「民族性」を「自然」なものと受け取り、そこへと無自覚に回帰することが『日本浪曼派』の運動ではなかった。あくまで近代的合理性を前提としたうえで、「土着性」を人工的に作り上げるということ。この点に、『日本浪曼派』の「イロニー」たる所以がある。

■このような特徴を持つ『日本浪曼派』は、日本における「自然主義」が担い得る表象機能に対する根本的懐疑を抱くところからスタートした。上記に引用した「広告」の中には、自然主義の否定と詩歌の称揚が記されている。日本における「自然主義」とは、「いま・ここ」という瞬間の充足性により全体性の表象を志向した芸術メディアであった。

■これに対し『日本浪曼派』は「詩歌」を重視する。「詩歌」の持つ特性は次の2点に集約されよう。①「詩歌」の歌唱による「同時性の経験」(ベネディクト・アンダーソン)を構築すること②詩的断片による「自然主義的リアリズム」の破壊、およびそのことによる主体(「自然」を認識する側)と客体(認識される側としての「自然」)の関係の人為性を暴露すること。

■こうして『コギト』『日本浪曼派』に代表される日本のロマン主義運動は、日本的「自然主義」への懐疑と「詩歌」の重視をもって開始されたのである。

2010年1月11日月曜日

堂目卓生『アダム・スミス』(2008、中公新書)


■本書は、2008年度のサントリー学芸賞を受賞すると同時に、2009年度の新書大賞第六位にランクインした。このことは、本書が学術的に高い水準にあると同時に、一般読者にも広く読まれ、支持されたことを示している。

■本書が目指すのは、これまで自由主義経済の思想的背景として理解されてきたアダム・スミスの『国富論』を、『道徳感情論』の延長線上において読み直すことで、新たな解釈を提示することである。『道徳感情論』においてスミスは、人間は「同感」という感情を基に、他者との社会的経験を通して胸中に「公平な観察者」を形成すると説いた。その「公平な観察者」に対する義務の感覚を具現化したものが「法」に他ならない。

■このように、人間の感情から秩序形成のプロセスを描いたスミスが、自由主義経済を手放しで礼賛したはずがない、というのが著者の主張の核心だ。著者は『国富論』の精緻な読解を展開し、市場社会を構成する富の交換というプロセスもまた、利己心のみならず他者への「同感」を基礎とすると説く。そして、常に胸中の「公平な観察者」の判断を仰ぎつつ、漸次的に市場を拡大することではじめて個人の幸福は最大化されると主張する。

■昨今の金融危機に端を発した不況のなか、論壇の風潮は、経団連を中心とする経営者と、湯浅誠氏や雨宮処禀氏を中心とする「ロスジェネ論壇」との対立を煽る方向性に進んでいる。その対立は、規制緩和による市場の拡大を目指すか、セーフティネットの充実による雇用者の尊厳を重視するかの対立と要約できる。

■しかし本書が示すように、両者は胸中の「公平な観察者」の確立という点で、その課題を共有しているのではないか。経団連の人々は市場の暴力にあまりにも無自覚なように見えるし、一方で「ロスジェネ論壇」の人々もまた、その主張が私情の吐露に終始しがちである。多くの経験から帰納されたバランス感覚のある「公平な観察者」を胸中に涵養することこそが、その人の幸福を最大化することを本書は教えてくれる。企業の経営者とフリーター、両者に手に取ってもらいたい一冊である。

2010年1月10日日曜日

東京大学教養学部中国語部会編『中国語購読教材・園地』


■最近、理由があって中国語の読解をトレーニングする必要があった。その際に使用したのが本テキストである。数年前まで、実際に東京大学の教養課程の学生(主に2年生)により使用されていたもののようだ。(現在は『行人』という改訂版が使われている。)

■中国語はドイツ語やフランス語に比し、単語の暗記と文法の理解は格段に容易である。だが問題は発音であり、発声・聞き取りともに習得するには相当の時間をかけてレッスンを受けなければならない。ピンインというアルファベット表記を用いてその発音法を示すのが現在は一般的だ。ただ、中国人とコミュニケーションをしたり、中国語検定を受けるのでない限り、発音を完璧にマスターする必要はない。

■僕の場合、発音の練習をする必要が無く、中国語の文献を読めさえすれば良かったので、本書を用いて単語力及び読解力の強化に務めた。全くの初心者であったが、約三ヶ月ほどで全訳を完成させることが出来た。

■収録されたテクストの題材は、李登輝の講演から、中国版ショートショート、高行健と楊煉の対話まで、非常にヴァリエーションに富んだものとなっている。詳細な語注や文法上の解説も付されているので、本書を一冊こなせば、「中華日報」の記事はおろか、中国語の研究論文にもなんとか取り組めるだけの実力が付く。

■ただ注意してほしいのは、本書では、テクストの題材それ自体としての刺激性を求めるあまり、特殊な語彙や構文が多用されているという点だ。よって、本書から単語を抜き出して単語帳を作成しても、基本的な単語力が身につかないままとなってしまう可能性がある。

■よって、まずは基本的なドリル(『トレーニングペーパー中国語/単語』NewtonPressがオススメ)をこなして、最低限の語彙および構文力を身につけてから臨むのがよいと思う。

2010年1月8日金曜日

佐伯啓思『現代民主主義の病理ー戦後日本をどう見るかー』(NHKブックス、1997.01)


80年代前半、浅田彰・中沢新一による「ニューアカ」旋風への反措定として、地味ながらも保守論壇もまた若手を輩出していた。『発言者』(現『表現者』)主幹で、当時東大教授だった西部邁に師事した松原隆一郎(現東大教授)と佐伯啓思(現京大教授)の二人である。1985年、サントリー学芸賞を受賞した『隠された思考ー市場経済のメタフィジックスー』(筑摩書房、1985.06)でデビューした佐伯は、以降、一貫して保守主義・反グローバリゼーション・反米愛国の立場から発言を続け、『正論』『諸君!』といった保守系言論誌の常連となっていった。

■ただし、各著書に繰り返し登場する「学者としての<自覚>」という表現(この「自覚」という言葉が、佐伯的保守思想のキーワードだと思われる。)からも分かる通り、その語り口は極めて論理的であり、例えば西尾某、藤岡某が書き散らす扇情的文章とはかなりの距離を感じさせる。(付言すれば、『新しい歴史教科書を作る会』発足時の中心メンバーだった坂本多加雄(故人)も、明治思想史の研究者としては超一流である。『市場・道徳・秩序』『近代日本精神史論』他参照。)

■本書は、前半が「装われた普遍主義」としての「アメリカニズム」と戦後民主主義者批判、後半は「住専と大蔵省」「オウムとマスコミ」「阪神大震災と市民社会」といった時評的な話題を扱っている。後半部はさすがに扱っている話題が「今さら」感を免れ得ないので、ここでは前半部、特に佐伯における丸山眞男評価に関して整理しておきたい。

■佐伯によれば、例えば大江健三郎に代表される戦後の「進歩的文化人」は、丸山眞男「超国家主義の論理と心理」(『世界』1946.05→『現代政治の思想と行動』1964.05)の呪縛に縛られているのだという。周知のように丸山は同論文で、戦時期の日本型ファシズムを「無責任の体系」と呼んで批判した。佐伯の整理に従えば、丸山の主張は①個人の確立②(下からの)デモクラシー③自由で知的な討論④市民的な政治参加、この四点に集約される。しかし佐伯によれば、丸山の言説には、一貫して「あいまいさ(アンビギュイティ)=二重性」が看取されるという。

<東大法学部という権威主義の牙城にあって、日本社会の権威主義批判を行うという姿勢。アカデミズムの研究者でありつつ、ジャーナリズムや市民活動に関与する姿勢。日本思想史の研究者でありつつ、西欧政治学の学識によって語る姿勢。日本にいながら西欧的近代の目で日本を対象化する姿勢。こうした「あいまいさ=二重性」こそ、丸山が発言し、影響力を発揮した条件だった。>[78-79]


■しかし、佐伯が批判する丸山の「日本にいながら西欧的近代の目で日本を対象化する姿勢」とは、そもそも丸山が意図したもの(「複眼的思考」「判断の相対化による自己超越」)だったはずだ。よってこの箇所に関する佐伯の丸山批判は的確でないように思われる。しかし実は佐伯は、丸山がナショナリストに他ならなかったことを十分承知してもいるのである。

<奇妙なことに彼は、決してアンチ・ナショナリストではなかった。それは、これら明治思想に関するものを見れば一目瞭然だし、あるいは、西欧のナショナリズムが、きわめて主体的、意識的に選び取られたものだ、というような分析からも見てとることができる。端的に言えば、彼の心中にある思想的基盤は、福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」の精神であったように見える。だから明治について書くときに、彼はもっとも精彩を放ったのである。そして、彼の悲劇は、福沢のテーマがもはや、そのままでは成立しない戦後世界において評論活動を行ったことにあった。>[90]


■丸山は確かに「先進西欧」により「後進日本」を裁断するという「二重性」を犯していた。しかしそれは、戦後を明治維新とだぶらせ、自らを福沢諭吉に擬せんとした丸山の「悲劇」であった。なぜなら戦後とは、西欧化がそのままナショナリズムに直結する明治維新期とは異なり、米ソ冷戦体制の下で、単なる西欧化とは別様なナショナリズムが模索されるべき時期であったはずだからだ。ただ、丸山が福沢的ナショナリストたらんとしていたことは疑うべくもないだろう。だから佐伯によれば、丸山は「悲劇」の思想家なのである。

■そして佐伯によれば、真に批判されるべきなのは、この丸山的「二重性」に無自覚に依拠することで、「先進西欧」を盲信し「後進日本」を断罪した戦後民主主義者達である。彼らは戦後の冷戦体制下、ソ連という明確な「敵」を作ることで「普遍主義」を装った「アメリカニズム」に守られた存在に過ぎない。大江健三郎をはじめとする戦後の進歩派(それはほぼ「岩波文化人」と重なると言ってよい)とは、自前の思想を保持していたわけでは決して無く、丸山思想の無自覚な受容と、冷戦体制というパワーポリティクスのもとで、自己を特権化することに成功したに過ぎない存在なのだった。

2010年1月6日水曜日

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書、2009.05)


■タイトルに冠された「今こそ」というタイトルが示す通り、例えば「序論」に「格差社会」議論への言及があるなど、本書は、「政治思想」が普遍性を装った単なる私的利害の発露に終始している昨今の論壇への異議申し立てとして書かれている。仲正はアーレントに即しつつ、あるべき「政治」と現行の<政治>との乖離を以下のように整理している。

<近代においては「政治」とは、様々な利害関心を有する人たちの掲げる異なる主張の間で調整し、各陣営間の力関係からして最も安定しやすい落としどころを見出し、それを社会全体の方針にすることだというような見方が支配的になっている。言い換えれば、経済的な「利益interest」の全体としての増加と各集団への配分が、政治の主要な「関心interest」になっている。そのせいで、各人にとっての物質的な「利害interest」関係をいったん離れて、自らの属する「ポリス=政治的共同体」にとっての「善」を追求すべく、「討議」しつづけるという姿勢・能力を培うことが重視されなくなっている。つまり、「私」にとって利益をもたらしてくれるのが“いい政治”で、「私」に損させるのが“悪い政治”である。そういう「私」たちの利害関係の最大公約数を取る形で、あるいは各利害集団のバランスを取る形で、その都度“政治”が「政党=党派party」の間の取引になっているわけであるー<party>というのは語の作りから見て、「部分part」的なものということである。>[14-15]


■「私」にとっての物質的利害をいったん括弧にくくり、「討議」を通じて「ポリス=政治的共同体」における「善」を追求すること。このような共通「善」の追求過程としての「政治」を理想とするアーレントからしてみれば、現行の「格差社会」論議は、経団連をはじめとする経営者集団(および保守系政治家)と「ロスジェネ」貧困層(および共産党)による、「討議」を欠いた「利益」闘争としての<政治>に他ならない。

■このような極めてアクチュアルな問題関心から書かれた本書ではあるが、アーレントの思想を手際よく整理した格好の入門書ともなっている。以下、本書から読み取れるアーレント思想のポイントを簡単にまとめておこう。

■『全体主義の起源』(1951)は、フロム『自由からの逃走』(1941)とハイエク『隷従への道』(1944)の延長線上にあるといえる。すなわち、三著はともに、西欧的近代の外部たる前近代的「野蛮」に「全体主義」の原因を見るのではなく、西欧的近代の「大衆化」にこそ「全体主義」の起源を見るという共通性を持つからだ。アーレントによれば、強力な「敵」の出現により一定の共同体を「国民」として纏め上げた点に「ナショナリズム」の萌芽を見ることが出来る。(シュミットの「友敵理論」、フィヒテ「ドイツ国民に告ぐ」も参照。)「友/敵」の二項対立的弁証法のもとに形成された西欧の「国民国家」は、資本主義が発達するベースとなり、それが帝国主義政策を招いた。だが重要なのはこの先である。アーレントによれば、「帝国主義」が「全体主義」を招いたのではない。「国民国家」終焉後に登場した「大衆社会」こそが「全体主義」の起源だというのである。ある特定の理想を追求することをやめ「アトム」化した「大衆」は、そうであるがゆえに、逆説的にある特定の「世界観」(物語)へと強力に吸引されてしまう。その典型的な事例を、アーレントはナチスの官吏としてユダヤ人虐殺を指揮したアイヒマンに看取している。アイヒマンはホロコーストという世紀の蛮行をなし得るような特異な人格の持ち主ではなかった。アーレントによれば、しかしそうであるがゆえに、すなわち彼が主体的な判断を停止した凡庸なる「大衆」であったがゆえに、彼は粛々とユダヤ人を殺し続けることが出来たのである。よって、「全体主義」に対峙するに際し、西欧近代の「個人主義」という伝統(物語)は、処方箋として機能し得ないのである。

<全体主義のメンタリティを分析したアーレントは、西欧近代の哲学・政治思想が前提にしてきた「人間」像、「自由意志を持ち、自律的に生きており、自らの理性で善を志向する主体」というイメージが現実から乖離していることを認識するに至った。そうした「主体」観を前提にして、普遍的な正義を確立しようとする近代の論理は、「アイヒマン裁判」のような問題に直面した時、自己矛盾に陥ることになる。>[70]


■このような「全体主義」への処方箋として、フロムは社会民主的連帯を提案し、ハイエクは自由主義による市場原理の徹底(と、そこから立ち上がる主体性)を提案した。しかしアーレントはそのような処方箋の提示を行おうとはしない。そのことは、ある価値観の提示こそが「全体主義」を帰結するというアーレントの主張を、『全体主義の起源』がパフォーマティブに示していることを意味するのだ言ってよい。

■『全体主義の起源』から七年後、『人間の条件』(1958)が刊行される。そこでアーレントは「人間」の条件として①労働②仕事③活動の三点を挙げている。「労働価値説」を唱えた初期マルクスや古典派経済学のアダム・スミスが①の「労働」を重視したのに対し、アーレントは③の「活動」を、しかも「公的領域」における「活動」を重視した。なぜならそれが、「言語」とそれにより構成される共同体の「物の見方」における「複数性」を保障するからだ。

<自他の言語共同体を分ける線をはっきり引いて、「内部」を均質化・純粋化しようとすれば、「物の見方」の多様性は抑圧され、「複数性」は死滅する。「内」と「外」が違うことを認識するだけではなくて、“内”と“外”の境界線がどこにあるのかという解釈自体にバリエーションがあり、かつその“内”の中にも様々なバリエーションがあることを承知しておく必要がある。師であるハイデガーがドイツ語で思考する者にとっての「真理」に拘っていたのに対して、アーレントは特定の言語共同体に限定されない、「人間」の条件としての「複数性」を探求しようとしたのである。「複数性」を生み出し、ヒトを「人間」らしくする「活動」に注目することによって、全体主義的な閉鎖性から離脱しようとするところに、アーレントの言語観の特徴がある。>[87]


■このような「複数性」を保障する「公的領域」における「活動」の典型を、アーレントは古代アテネの「ポリス」に見ている。そこでは「公的領域」と「私的領域」とが截然と区別され、人々は「公的領域」における「活動」にコミットすることで「共通善」、すなわち「公共性」を追求した。他方、同時代、アーレントの影響を受けながらコミュニケーション理論を展開していたユルゲン・ハーバマスは、近代市民社会における「世論」の形成を重視している。すなわち、各個人が喫茶店や読書会などの「私的領域」において意見交換を行いながら新聞などのメディアを通じて「世論」を形成するに至ったことを、「市民的公共圏」の成立として評価しているのだ。だがアーレントは、ハーバマスの言う「私的領域から立ち上がる公共性」に懐疑的である。「私的領域」は結局、物質的利害関係に束縛され、単なる私的感情の発露に終始する恐れがあるからだ。自らの利害を括弧容れした「公的領域」における「活動」によってこそ、「複数性」の保たれた議論が可能となるのである。

<引き籠もって考えるだけでもダメだし、派手なアクションを繰り返すだけでもダメなのである。複数の視点から物を見ることを可能にする討論を行うことが、「活動」力を高めるうえで肝要だが、時間と場所、お互いに自由な人格として認め合っている仲間がいないと、本当の意味で討論することは出来ない。>[112]


■『革命について』(1963)について。アーレントは、マルクス主義における「進歩史観」「階級闘争史観」「疎外論」を警戒する。なぜなら人々は、自らの「疎外」が解除され「自由」になったと感覚した途端、「共通善」を追求するという公共的な「活動」をやめてしまう恐れがあるからだ。アーレントは本書において、このようなマルクス主義の「解放=自由(リバティー)」(つまり疎外論)と、「共通善」を追求する「自由(フリーダム)」を峻別し、後者を称揚したのである。アーレントによれば、前者は弱者(疎外されたもの)への「共感」を媒介として「全体主義」に帰結する恐れがある(例えばフランス革命時のロベスピエール)。そこでアーレントは、アメリカ建国の過程を古代ポリスにパラフレーズしつつ、「公的領域」における「活動」を保証する「自由」を「構成」することの重要さを説く。

<問題は、何故、ロベスピエールたちと違って、アメリカの「建国の父たち」が、健全に機能する「憲法=国家体制」を「創設」することに成功したのかである。アーレントの答えは簡単である。それは彼らが、自分たちがやっていること、つまり政治的共同体を「創設=基礎付ける」こと、そしてその共同体を「憲法」を軸に「構成」することの意味を理解していたからである。旧秩序を破壊して人々を抑圧から解放するだけでなく、同時に自分たちで、人々が共に活動することを可能にする新しい「自由な空間」を創設する必要があることを理解していたのである。>[152]

2010年1月4日月曜日

カール・シュミット『政治的なものの概念』(未来社、1970.12、田中浩/原田武雄訳)

■『政治的なものの概念』は、ワイマール共和制下における議会主義および複数政党制が招いた政治的・社会的混乱と不統一に対する処方箋を提示すべく書かれた。ここでシュミットが企てたのは、端的に言えば混乱する<社会>に対する安定した<国家>の復権である。シュミットは「政治的なもの」の識別基準を「友か敵か」に求める。社会に存する様々な対立は「友」と「敵」による対立へと還元可能であり、「友」は相手を「敵」と看做すことで自らの結束を強めつつ、「敵」の存在論的な殲滅を志向するのだという。

<政治的思考および政治的本能は、理論的にも実際的にも、友・敵を区別する能力によって実証される。重大な政治のクライマックスは同時に、敵が具体的な明瞭さで敵として認識される時点なのである。/これは逆にもいえる。すなわち、国際政治・国内政治の区別なく、政治史上いたるところにおいて、この〔友・敵の〕区別をなしえず、ないしはなしたがらないことが、政治的終末の徴候としてあらわれる。>[84-86]
 
■シュミットによれば、このような「政治的なもの」=「友・敵」の対立の帰結として典型的なのが戦争であるとされる。そしてそのような<例外状態>を収束させるべく「決断」を下すのが、「主権者」としての「国家」に他ならない。

2010年1月2日土曜日

ジョルジュ・アガンベン『ホモ・サケルー主権権力と剥き出しの生ー』(以文社、2007.04、高桑和巳訳)




■古代ギリシャにおいては、単に生物学的に「生きていること」を意味する「ゾーエー」と、個体間や集団における「生の形式」を意味する「ビオス」が区別され、ポリスとは人間に特有な「ビオス」が実現される場だとされた。しかしフーコーによれば、「ビオス」に対して「ゾーエー」、すなわち人々を生物学レベルにおいて管理することが近代政治の統治行為において中心に据えられるようになったという(周知の通り、フーコーはこれを「生政治」と呼んだ)。

■アガンベンはフーコーの「生政治的統治モデル」という観点を引き継ぎつつ、それと従来の権力による「法制度的モデル」との「交点」の模索に着手する。その際に注目されたのが、ローマ古法に登場した「ホモ・サケル」(「聖なる存在」)なる存在だった。親に危害を与えたり、客人に不正を働いたりした者を処罰するにあたり、古代ローマ人はその者を「ホモ・サケル」(「聖なる存在」)と呼んだ。それは、その者を世俗の法秩序の外にある「聖なる存在」であると位置づけることにより、誰もが法律上の殺人罪に問われることなくその者を殺害することが可能となったからである。しかも、その者自体が「聖なる存在」ゆえ、神への「犠牲」として供されることすらもなかった。このように、「犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生」、世俗的法からも宗教からも排除された「剥き出しの生」、これこそが「聖なる/呪われた生命」としての「ホモ・サケル」に他ならない。