2013年12月1日日曜日

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』(河出書房新社、2013.11)

■京都大学人文科学研究所のラカン派精神分析学者による社会評論。本書が描くのは、現代社会における、「抑圧」の不在に伴う「表象」の衰退と「露出」の全面化という事態である。

■フロイトが発見した「無意識」とは、単に「意識にのぼらないもの」のことではない。それは、ある力によって意識の外に押し出されたもの、すなわち「抑圧」されたものの場のことである。この「抑圧されたもの」が欲動の力を借りて意識の場へ回帰するとき、例えばそれは夢のような「表象」として現出する。従って、精神分析の考えの枠組みによれば、「抑圧」と「表象」はセットなのである。

■しかし現代社会では、この「抑圧」の契機が極端に縮減しているのだという。国際ラカン協会のシャルル・メルマンは『重々しさのない人間』において、資本主義経済の進展と科学テクノロジーの発達により、私たちの消費活動が「抑圧」の経済から「享楽の露出」の経済へと変化したことを指摘している。TwitterなどのSNSを通じて他者と容易に「つながる」ことができ、欲しいものは何でも手に入る消費社会において、「抑圧」なき幼児的「享楽」が全面化することになるのである。そこでは、「表象」「表現」という機会は失われ、単なる「モノ」が「露出」し「提示」されるだけとなるだろう。

■立木氏は、『思想』(2010年6月号)所収の座談会「来るべき精神分析のために」(十川幸司、原和之、立木康介)の中で、現在の精神分析学の世界的潮流として、フロイト的「抑圧」が後退している現状を指摘している。

<1980年にDSM-Ⅲというアメリカ精神医学会の診断マニュアルの改訂版が出されたことが挙げられます。そこでは、「ヒステリー」という診断が消え、「神経症」というカテゴリーが解体されてしまった>[9]

<最近では、ジャン・ピエール・ルブランという分析家がミレールの二番煎じで『普通の倒錯』という本を出版した。彼らは心的経済全体が以前と同じようには動いておらず、抑圧の経済から享楽中心の、享楽を見せびらかすような経済へ移った、という議論をしています>[10]

<ECFでは、症状の「意味」を読み取る従来のセマンティックな作業から、プラグマティックな作業に、つまり、語用論的とは言いませんが、「症状使用論的」な作業に分析のあり方が変わってきたという認識が今では一般的です。症状の「意味」よりも、症状が現実界あるいは享楽との関係でどういう役割を果たしているかという点、つまり症状の機能が問題になるわけですね>[10-11]

■明示こそされていないが、本書が念頭に置いているのは、いわゆる「ゼロ年代」に広く議論された、Twitterやニコニコ動画を素材とするアーキテクチャ社会論である。だが、確かにそれを「幼児的享楽の全面化」と切って捨てることは簡単だろう。しかし私たちが、既に「抑圧」を自らのうちに抱え込み得ない社会に生きていることは、どうしようもない現実である。ここで必要なのは、後期ラカンにおける「抑圧から享楽へ/症状からサントームへ」という図式のさらなる読み替えであるように思われる。

2010年12月13日月曜日

『ユリイカ 総特集・村上春樹』(青土社、2010.12)に寄稿

■『ユリイカ』の村上春樹特集号に寄稿しています。ブックガイドとして、『意味がなければスイングはない』『ポートレイト・イン・ジャズ』『村上ソンズス』の三冊をレビューしています。書店で見かけたら手に取ってみてください。

■今回の企画については、批評家の中沢忠之さん(日本近代文学)のお声がけにより成立したものです。中沢さんに感謝申し上げます。

2010年12月12日日曜日

中森明夫『アナーキー・イン・ザ・JP』(新潮社、2010.09)


■セックス・ピストルズのベーシスト、シド・ジャビスに憧れを持った凡庸な17歳の高校生の脳内に、突然大杉栄=「杉さん」が憑依する。「杉さん」は21世紀の日本の現状に驚嘆しつつも、驚くべき学習能力で現状を把握、局面局面でひょっこり顔を出しては、「僕」の窮地を打開していく。
■本書の設定は最近流行の並行世界を描いた作品(東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、高橋源一郎『悪と戦う』)と比べ、その性質を逆転させていると言える。主人公が「あちら」と「こちら」に分裂するのではなく、「いま・ここ」で、「僕」と「杉さん」が一つの身体において二重化されるのだ。本書の読みどころは、何より一つの身体上で交わされる「僕」と「杉さん」の会話の妙味にあると言ってよい。
■周知のように、大杉栄は関東大震災後に甘粕正彦大尉により虐殺されてしまうわけだが、そのシーンも本書終盤にはしっかりと書き込まれている。そしてそのことが、「僕」を一人の「アナーキスト」へと”成長”させる動作因として機能していることには注意が払われて良い。すなわち、本書は「アナーキストへのビルディングス・ロマン」として読むことが可能なのだ。
■ラストシーン、「僕」により全てがアナーキーになったとある会場で、実在の政治家から批評家、歴史上の人物が集合し、彼らの混沌が「僕」の手によりあるひとつの「フレーズ」へと収斂していくさまは、物語の終局としては極めて感動的なものであったと感じた。