
■物語の終盤まで、視点人物が太郎と西の間で揺れ動く。これだけでもこの小説は不穏さを隠さないのだが、クライマックスが近くなると、さらに新しく「わたし」という語り手が登場する。これは、太郎が西との間で話題に出していた太郎の妹であることが分かる。
■小説が、この「わたし」という一人称の語りにリセットされた後、以下のような奇妙な叙述が出現する。
「わたしが帰った次の日、太郎は、賃貸情報サイトで部屋を検索した。そろそろ、次の場所を探さなければならなかったが、どの街のどんな部屋に住みたいか、なにも思い浮かばなかった。『似た条件』や広告で表示されている画像をあれこれクリックしていくうちに、山形の鉄砲町というところの一戸建てを見ていた。二階建てのこじんまりとした家の周りには雪が積もっていた。
ここに住むことができるのだと、太郎は気づいた。全然知らない、なんの情報も持っていない場所。生活が続くかどうかはわからない、とりあえず、住むことはできる。この寝転ぶのに良さそうな和室がある家に。画像をクリックしていくと、最後は風呂場だった。黒と白のタイルが交互に貼られたその画像を見たとき、太郎は、部屋を探すのはもっと後でいいと思った」[129]
■引用部では、一人称「わたし」が設定されているにも関わらず、三人称である太郎の心内語が語られている。これは、通常の一人称小説では決して許されない叙述である。しかし、このような不自然な叙述が「読めて」しまうのは、読者がこの箇所に至るまでに、太郎に焦点化する三人称多元描写の装いを備えたこの小説を「読み進めてきた」からである。
■小説はラストで、隣の家に侵入した太郎が、いつのまにか寝てしまい、起きるとドラマの撮影が始まっている、というシーンが挿入される。このシーンは唐突かつ意味不明で、読者を驚かせるが、登場人物たちはいたって自然に行動している。
■読者と登場人物におけるこの認識のギャップは、このシーンに至る文脈が小説内に書かれていないということ、すなわち読者が「読んでいない」ことによって導かれる。いわば、この家の内部に、小説の外部が用意されているのである。
■西は隣の家を執拗に観察し、住人と親しくなることで家の内側に入り込むことに潜入し、ついには念願だった「風呂場」を見ることにも成功する。しかしこの家には、読者が「読むことができない」外部が存在する。視点人物の移動や人称の巧みな変化が、本作におけるこのようなダイナミズムを可能にしている。