2015年7月30日木曜日

柴崎友香『春の庭』(文藝春秋、2014.07)

■物語は、高級住宅街・世田谷にある賃貸アパート「ビューパレス サエキⅢ」に住む、会社員の太郎、漫画家の西、「巳さん」を中心に描かれる。西は、写真集「春の庭」に写し取られたある夫婦の過去の姿を理想化し、それを求めてその家の隣にあるこのアパートに引っ越してきた。同じアパートの住人である太郎は、当初はこの隣の家に無関心であったが、西に影響されて次第に興味を抱いていく。

■物語の終盤まで、視点人物が太郎と西の間で揺れ動く。これだけでもこの小説は不穏さを隠さないのだが、クライマックスが近くなると、さらに新しく「わたし」という語り手が登場する。これは、太郎が西との間で話題に出していた太郎の妹であることが分かる。

■小説が、この「わたし」という一人称の語りにリセットされた後、以下のような奇妙な叙述が出現する。

 「わたしが帰った次の日、太郎は、賃貸情報サイトで部屋を検索した。そろそろ、次の場所を探さなければならなかったが、どの街のどんな部屋に住みたいか、なにも思い浮かばなかった。『似た条件』や広告で表示されている画像をあれこれクリックしていくうちに、山形の鉄砲町というところの一戸建てを見ていた。二階建てのこじんまりとした家の周りには雪が積もっていた。
 ここに住むことができるのだと、太郎は気づいた。全然知らない、なんの情報も持っていない場所。生活が続くかどうかはわからない、とりあえず、住むことはできる。この寝転ぶのに良さそうな和室がある家に。画像をクリックしていくと、最後は風呂場だった。黒と白のタイルが交互に貼られたその画像を見たとき、太郎は、部屋を探すのはもっと後でいいと思った」[129]

■引用部では、一人称「わたし」が設定されているにも関わらず、三人称である太郎の心内語が語られている。これは、通常の一人称小説では決して許されない叙述である。しかし、このような不自然な叙述が「読めて」しまうのは、読者がこの箇所に至るまでに、太郎に焦点化する三人称多元描写の装いを備えたこの小説を「読み進めてきた」からである。

■小説はラストで、隣の家に侵入した太郎が、いつのまにか寝てしまい、起きるとドラマの撮影が始まっている、というシーンが挿入される。このシーンは唐突かつ意味不明で、読者を驚かせるが、登場人物たちはいたって自然に行動している。
 
■読者と登場人物におけるこの認識のギャップは、このシーンに至る文脈が小説内に書かれていないということ、すなわち読者が「読んでいない」ことによって導かれる。いわば、この家の内部に、小説の外部が用意されているのである。
 
■西は隣の家を執拗に観察し、住人と親しくなることで家の内側に入り込むことに潜入し、ついには念願だった「風呂場」を見ることにも成功する。しかしこの家には、読者が「読むことができない」外部が存在する。視点人物の移動や人称の巧みな変化が、本作におけるこのようなダイナミズムを可能にしている。

2014年2月25日火曜日

Kangding Ray「Solens Arc」(raster-noton、2014.02)

■Kangding Rayの新譜「Solens Arc」を聴く。ノイジーな音響とビートを精緻に構築した「Stabil」(2006)「Automne Fold」(2008)、明らかにフロアを意識した「OR」(2011)といった過去の傑作に比して、いささか物足りない印象を受けた。2Tr「The River」のシンセサイザーのノイズも、3Tr「Evento」や5Tr「Blank Empire」の4つ打ちも、総じて音色の作り込みがいささか甘いのではないか。アルバム全体を通じたコンセプトも、よく分からない(しかしアートワークは非常にカッコいい!)。

■Kangding Rayは、raster-notonに所属するアーティスの中ではかなりポップな部類に入るだろう。Alva-noto、さらには池田亮司の審美的なマテリアリズムは、時に自閉的だ。音色とリズムのセンスにおいて、極めてポップな感覚を持つKangding Rayには、いわゆる「音響派」を、「テクノ」の方向へと押し広げていくような作品を期待したい。


2013年12月1日日曜日

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う』(河出書房新社、2013.11)

■京都大学人文科学研究所のラカン派精神分析学者による社会評論。本書が描くのは、現代社会における、「抑圧」の不在に伴う「表象」の衰退と「露出」の全面化という事態である。

■フロイトが発見した「無意識」とは、単に「意識にのぼらないもの」のことではない。それは、ある力によって意識の外に押し出されたもの、すなわち「抑圧」されたものの場のことである。この「抑圧されたもの」が欲動の力を借りて意識の場へ回帰するとき、例えばそれは夢のような「表象」として現出する。従って、精神分析の考えの枠組みによれば、「抑圧」と「表象」はセットなのである。

■しかし現代社会では、この「抑圧」の契機が極端に縮減しているのだという。国際ラカン協会のシャルル・メルマンは『重々しさのない人間』において、資本主義経済の進展と科学テクノロジーの発達により、私たちの消費活動が「抑圧」の経済から「享楽の露出」の経済へと変化したことを指摘している。TwitterなどのSNSを通じて他者と容易に「つながる」ことができ、欲しいものは何でも手に入る消費社会において、「抑圧」なき幼児的「享楽」が全面化することになるのである。そこでは、「表象」「表現」という機会は失われ、単なる「モノ」が「露出」し「提示」されるだけとなるだろう。

■立木氏は、『思想』(2010年6月号)所収の座談会「来るべき精神分析のために」(十川幸司、原和之、立木康介)の中で、現在の精神分析学の世界的潮流として、フロイト的「抑圧」が後退している現状を指摘している。

<1980年にDSM-Ⅲというアメリカ精神医学会の診断マニュアルの改訂版が出されたことが挙げられます。そこでは、「ヒステリー」という診断が消え、「神経症」というカテゴリーが解体されてしまった>[9]

<最近では、ジャン・ピエール・ルブランという分析家がミレールの二番煎じで『普通の倒錯』という本を出版した。彼らは心的経済全体が以前と同じようには動いておらず、抑圧の経済から享楽中心の、享楽を見せびらかすような経済へ移った、という議論をしています>[10]

<ECFでは、症状の「意味」を読み取る従来のセマンティックな作業から、プラグマティックな作業に、つまり、語用論的とは言いませんが、「症状使用論的」な作業に分析のあり方が変わってきたという認識が今では一般的です。症状の「意味」よりも、症状が現実界あるいは享楽との関係でどういう役割を果たしているかという点、つまり症状の機能が問題になるわけですね>[10-11]

■明示こそされていないが、本書が念頭に置いているのは、いわゆる「ゼロ年代」に広く議論された、Twitterやニコニコ動画を素材とするアーキテクチャ社会論である。だが、確かにそれを「幼児的享楽の全面化」と切って捨てることは簡単だろう。しかし私たちが、既に「抑圧」を自らのうちに抱え込み得ない社会に生きていることは、どうしようもない現実である。ここで必要なのは、後期ラカンにおける「抑圧から享楽へ/症状からサントームへ」という図式のさらなる読み替えであるように思われる。