2010年12月12日日曜日

中森明夫『アナーキー・イン・ザ・JP』(新潮社、2010.09)


■セックス・ピストルズのベーシスト、シド・ジャビスに憧れを持った凡庸な17歳の高校生の脳内に、突然大杉栄=「杉さん」が憑依する。「杉さん」は21世紀の日本の現状に驚嘆しつつも、驚くべき学習能力で現状を把握、局面局面でひょっこり顔を出しては、「僕」の窮地を打開していく。
■本書の設定は最近流行の並行世界を描いた作品(東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』、高橋源一郎『悪と戦う』)と比べ、その性質を逆転させていると言える。主人公が「あちら」と「こちら」に分裂するのではなく、「いま・ここ」で、「僕」と「杉さん」が一つの身体において二重化されるのだ。本書の読みどころは、何より一つの身体上で交わされる「僕」と「杉さん」の会話の妙味にあると言ってよい。
■周知のように、大杉栄は関東大震災後に甘粕正彦大尉により虐殺されてしまうわけだが、そのシーンも本書終盤にはしっかりと書き込まれている。そしてそのことが、「僕」を一人の「アナーキスト」へと”成長”させる動作因として機能していることには注意が払われて良い。すなわち、本書は「アナーキストへのビルディングス・ロマン」として読むことが可能なのだ。
■ラストシーン、「僕」により全てがアナーキーになったとある会場で、実在の政治家から批評家、歴史上の人物が集合し、彼らの混沌が「僕」の手によりあるひとつの「フレーズ」へと収斂していくさまは、物語の終局としては極めて感動的なものであったと感じた。