2010年2月16日火曜日

古谷利裕『世界へと滲み出す脳ー感覚の論理、イメージのみる夢ー』(青土社、2008)

■収録論文の中から、デヴィッド・リンチ論、黒沢清論、中野成樹+松井周論、岡崎乾二郎論、橋本治論を読んだ。どれもとても面白く、刺激を受けた。樫村晴香と岡崎乾二郎(を経由したドゥルーズ)を理論上の参照点としつつ、それを橋本治的な手つき(「~と思われた」「~と感じた」という文末)で出力してみた、という感じだろうか。

■例えば冒頭のリンチ論を見てみる。リンチの映画はどれもスクリーンいっぱいに「徴候」を充溢させることで「出来事」を隠蔽させるのだけれども、しかしその「徴候」は決してメタフォリカルな深みを指し示すのではなく、「ただ内的な欲望の切迫した切実さのみによって支えられている」。このような「徴候」の現前、「徴候」のリアリティこそがリンチ映画の神髄だとされる。このような視点は、例えば一般に「観念性の強い作風」と称される戦後派の小説を再評価する重要な視点となりうるのではないか、と感じた。(他にも、リンチ映画における空間の並立とか(「ロストハイウェイ」「マルホランドドライブ」)。戦後派にもそういう小説が多い。)

■他方、岡崎論は、理論家としての岡崎を実作者としての岡崎がその作品において超出してしまう瞬間がフォーカスされるのだけれど、「細部と細部の無媒介的接続によるフレームの内破」といういかにもな現代思想系のジャーゴンに落とされていて、あまり面白いとは思えなかった。対象への深すぎる憧憬が批評家の言葉を鈍らせる好例ではないだろうか。

■ただ、「はじめに」で宣言されていた通り、作品から「私」が不意に受け取ってしまった「何か」を、作品にはじめから埋め込まれていた構造に還元するのではなく、かといって単なる「私」の恣意的な妄想に還元するのでもないという姿勢を貫くということ。すなわち、作品そのものと、そこから「私」が得た感覚は別物なのだが、しかしその感覚は作品に由来するという分裂を、「作品と私との<経験>」という遠近法のもとで丹念に言語化していく試みを実践すること。そしてそれを思い切って「批評」と呼んでしまうこと。古谷はその「批評」において「私」を手放していない。このような姿勢には、とても感銘を受けた。

■なお、現在も彼の新刊『人はある日とつぜん小説家になる』を読み進めている最中である。今週末にはジュンク堂新宿店にて小説家の磯崎憲一郎との対談がよていされているとのこと。時間に余裕があれば、是非足を運んでみたい。