2010年2月1日月曜日

アレクサンダー・ガルシア・デュットマン『友愛と敵対―絶対的なものの政治学―』(大竹弘二、清水一浩訳、月曜社、2002.06)

■著者のデュットマンは、1961年スペインのバルセロナ生まれの哲学者。フランクフルト大学に提出した『思惟の記憶―ハイデガーとアドルノについての試論』で哲学博士号を取得した。その後、デリダのゼミに出席していたということもあり、1999年に出版された本書は、デリダ『友愛のポリティクス』の強い影響下に書かれたものと推測される。

■第一章「此岸と彼岸における敵たちーラディカル化」において展開されるのは、『友愛のポリティクス』を踏まえたカール・シュミット批判である。シュミットは『政治的なものの概念』で「友敵理論」を提出していた。だが同時に、「敵」と看做されたものの殲滅を予防するため、「友―敵」という区別があくまでも政治上の「技術」であること、すなわち西欧世界における「限定戦争」に過ぎないことを自覚する必要性を説いていた。

■しかしデュットマンによれば、そのような「技術」的な「限定戦争」もまた、それを「確認」と「創設」(これをデュットマンは「二重の先行性」と呼ぶ」)する行為主体を要請する。しかし、この行為主体はメタレベルへと順繰りに無限後退するしかない。結果、「友敵」の決定は、対象の「存在即応性」に準拠するしかなくなってしまうのである。デュットマンはこのような「存在即応性」により「敵」と看做されてしまった存在を、「確認」と「創設」という「二重の先行性」に先立つ、よりラディカルな「可能的敵」と呼ぶ。

■シュミットは『獄中記』で、この「可能的敵」を、止揚可能な相互関係(兄弟のような関係)として処理してしまっていた。だがデュットマンは提起する。そのような「可能的敵」から我々は逃れることが出来るのであろうか?と。

■第二章「友愛―解放についての試論」は、「無制限な語らい」としての「友愛」をめぐり展開される。デュットマンによれば、人は日々の語らいのなかで徐々に「友愛」の構築へと漸近するのではない。そうではなく、人は相互の語らいの場においてその都度「友愛」への跳躍を試みているのである。

■しかしその「友愛」が、歴史的拘束性から解放された「無制限な友愛」であるとは必ずしも言えない。「友愛」は、「無制限な友愛」と「条件に制約された歴史的友愛とに分裂している」。

■さらにデュットマンは、デリダが『友愛のポリティクス』において、「無制限の友愛」を、「最小限の友愛」あるいは「来るべき民主主義」という二つの名で呼んだことに触れている。前者は「絶対的な孤立化」「絶対的な単独性」を意味し、後者は「絶対的な平等と均等性」を意味する。よって、「無制限の友愛」は、<孤立>と<平等>を同時に満足させるものとならなければならない。

■このような「無制限の友愛」は、一見「いま・ここ」に存在するように見える。しかしそれはラディカル化された抽象としてでしかなく、具体的制度すなわち「民主主義」としては到来していない。「無制限の友愛」としての「民主主義」がいつ我々のもとに到来するのか。デュットマンによれば、それは「一つの秘密としてとどまり続けている」のであるのだという。