2010年1月2日土曜日

ジョルジュ・アガンベン『ホモ・サケルー主権権力と剥き出しの生ー』(以文社、2007.04、高桑和巳訳)




■古代ギリシャにおいては、単に生物学的に「生きていること」を意味する「ゾーエー」と、個体間や集団における「生の形式」を意味する「ビオス」が区別され、ポリスとは人間に特有な「ビオス」が実現される場だとされた。しかしフーコーによれば、「ビオス」に対して「ゾーエー」、すなわち人々を生物学レベルにおいて管理することが近代政治の統治行為において中心に据えられるようになったという(周知の通り、フーコーはこれを「生政治」と呼んだ)。

■アガンベンはフーコーの「生政治的統治モデル」という観点を引き継ぎつつ、それと従来の権力による「法制度的モデル」との「交点」の模索に着手する。その際に注目されたのが、ローマ古法に登場した「ホモ・サケル」(「聖なる存在」)なる存在だった。親に危害を与えたり、客人に不正を働いたりした者を処罰するにあたり、古代ローマ人はその者を「ホモ・サケル」(「聖なる存在」)と呼んだ。それは、その者を世俗の法秩序の外にある「聖なる存在」であると位置づけることにより、誰もが法律上の殺人罪に問われることなくその者を殺害することが可能となったからである。しかも、その者自体が「聖なる存在」ゆえ、神への「犠牲」として供されることすらもなかった。このように、「犠牲化不可能であるにもかかわらず殺害可能である生」、世俗的法からも宗教からも排除された「剥き出しの生」、これこそが「聖なる/呪われた生命」としての「ホモ・サケル」に他ならない。